昭和53年10月04日 朝の御理解
御理解 第22節
「天地金乃神と言えば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏れるぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」
信心には迷いを起こさぬこと、一心に貫くこと、それが大事であります。昨日はあのように婦人の、婦人会の方たちの大会が素晴らしい雰囲気の中に、今まで合楽のいろんな大会があったけれども、今度の大会が一番じゅうじつしてあっただろうと思われるような、素晴らしいじゅうじつした大会になり、そして終わらして頂いて、しかもそのなんというか、その後の余韻というか、がいつまでも、まっ皆さんもそうであったかもしれません、私は心の中に残っておる。
ほんとにあの大会に参加できなかった、案内はたしか四百五十ぐらい出してあったんでしょうけども、実際集まられた方は百十何名とかという話でしたが、ほんとにああいう会合にでらせて頂いたら確かに信心の、信心ていうものは有難いものだなと、信心の薄いものでも分かるだろと思われるような感じの大会でした。講師が竹内先生でしたが、まっいうなら、伊万里の市長としての市政の上に信心を基にしての、いうならば合楽理念を基にしての日々の御用ですから。
いわゆる市政、またはそれに伴う選挙と言った様な事が普通一般とは違った生き方、いわゆる合楽理念をもってする外有りませんという内容のお話でした。その中でこの信心決心と言う事を言っておられるですね。信心には決心信心辛抱これも大事です。けれどもまずは信心決心がでけなければならんという言葉を使っておられます。ね、この信心決心がでけませんとね、迷いが起こるです。
今ここへ着かせて頂いたら昨日家内が名誉会長として初めておかげをこの大会におかげを頂いておりました。第二回婦人信徒大会における親奥様のお言葉と書いたものがここに置いてあるんです。一口ですけれども読んでみましょうか。「本日はお目出度うございます。神様と親先生の間に交わされてあるご神願が御成就に相成りますように、只々祈らせて頂くのみでございます。愈々土の信心。黙って治める信心を身につけさせて頂きたく思い願う私でございます。」
という短い言葉ですけれども、この言葉がいついつまでもなんかこう残ってるんですね、夕べ休ませて頂いても、思っておる事はその信心決心と言う事と家内の言葉がこうなんか私の心を捉えきってしまってるていう感じがするんです。そして今日のこの二十二節というのが、ね、二十二というのは夫婦とも読めるんです。二にプラスする所の二です。ね、そしてそれは四になると言う事なんです。ね、ほんとに運命共同体と言う様な事が言われます。ここでは一蓮托生と言う事が言われます。
もう生きても死んでもあなたと共にという決心と辛抱、信心辛抱とが家内の言葉の中から感じられます。ほんとにようああいう中についてこれたもんだと思うくらい。もう私はとてもそげな信心なでけん、そげな事はでけんというて大体いうなら別れ話のひとつもあってもよかった。でもおかしくはない。暫く里に帰らしてもらうというても良い様な感じの中に、そういうものをさらさら感じず。
どんな修行の場合でも、どんな事でも平気で家内に話し、平気で家内がそれを受けてきたと言う事は、あら神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないなと今にして思うんです。ね、一辺だっていうならばこんな難儀な中にとか不平不足を言った事はない、なかった。あらためてなるほど昨日この言葉の中に私の、が神様から頂いてその事を家内に伝える事を信じておらなければ、付いて来れなかっただろうと思われる、を私どもの今日までの、まっいわば半生なんですけれども。
半生というのは一生の半分という意味ですよ。まっこれからも愈々二十二と言う事になって行く事でございましょうが。ね、天地を一目に見ておるぞと。私ども夫婦の中に交わされておるものというものを神様がいわゆる二十二として、二プラスの二として見ておってくださったんだと思う。改めて是は私の信心によると言うのではなくで、私ども夫婦の信心により合楽があると言う事が改めて思われます。ね、
受けものが悪ければおかげが漏るぞと。そこに迷いもなからなければ、不平もない不満もない。それがそのまま受け物になっておったのじゃないだろうかと思います。十分の徳を受けようというふうに思ったわけでもないのですけれども、結局は十分の徳の受けられるような心の状態、私ども夫婦の信心というものがそういう事に成っておったんではないか。ね、ままよという心を出さねば、おかげは受けられぬ。
ままよとは死んでもままよの事ぞ、と言う事に至る時に、これは私の信心もやっぱり死んだ気でと、神様は当時いつもあの教えて下さったし、ね、死んだ気で道を開け死んだ気でいけば人が助かるというふうに頂いておりましたが、ね、家内もそれに付いて来て、まっ言葉で言うならばそう言う事になるのじゃないだろうか。もうこの人と一緒に付いて行くよりほかに手はない。だからどういう場合であっても、ね、いうならばままよの心で付いてきたのではなかろうか。ね。
ここのこういう言葉というものは、あの親先生と神様との間に交わされておるとご神願といったような言葉を使っておりますが、これは言うならばまだ人が助かるでもなからなければ、ただ神様から色々お知らせを頂く、そう言う事を逐一、いうならば聞いて知っておるわけです。ですから神様そんな事は言いなさ、ほんなこっちゃろうかと言う様な態度を取らなかったと言う事です。ね、
そして段々少しずつ道が開けてくるに従って、なるほど親先生があの神様と言うならお約束というものがです、こんなふうにして段々徐々に実現していくと言う事に、もう言うならば、まあ心の目を見張るような思いで付いてきたのじゃなかろうかとこう思うんです。なるほど先生が言いなさった事にいっちょん違いはない。いよんなさった通りになってきた、と言う様なものではなかっただろうか。
だから言葉をはさむいうならば隙もなかったと言う事にもなるのじゃないでしょうか。そんためには愈々黙って治める信心を身に付けて頂きたい。ね、愈々土の信心を身に付けていかねばというふうに言うならば決心しておるその事が、ね、もういうなら数十年前にそういう信心決心がでけておったんだというふうにしか思われません。ね、問題は信心決心です。ね、この頃あっちは熱心に信心しござるが。
ちった迷いのおこちよるめ、この頃参ってきなさらんが、というて、まっ信心のそんなみんなの信心を見てごらんなさい、一回二回は必ずそう言うとこがあるです。もう私はどうもこの頃と言った様な、なんかちょっとした様な事が心に触ったり、掛ったりしてね信心をぐずぐずしたり、一時ちょっとやめてみたり、ね。私と家内との間にそういうものが、ね、もうほんとなかったです。ね。
いつも二足すの二であったと言う事です。だからそこにはお互い二しかない力がいつも四になって表れておったという感じがするんです。ね、迷いというものがない、ね。ままよとは死んでもままよの事ぞと、そこに十分の徳が受けられると仰るのですから。愈々これは私の、まっいうならば専売特許、これだけは私のものと言った様なものがです貫かれる信心、いわゆる実意丁寧神信心が一つ成し遂げさしてもらわねばならん。まっ昨日の婦人大会の余韻がまだ私の心の中に残っておる。
たまたま今日は二十二節という御理解を頂いて、家内礼賛になりました。けども私はほんとに昨日の最後の挨拶に皆さんにもお話したことでしたけれども、今日は家内にさらわれたような気がするというて話したことでした。確かにさらわれてました。けれども有難いと思うのです。ね、神様がもう確かに見ておいでですから、天地一目に見ておるぞと仰るのですから。ね、
私どもの心の中まで見とうしなのですから。ね、おかげもうけものが悪ければおかげが漏るぞと。ね、おかげで神様のおかげを段々受け止めさせて頂いて日々おかげを頂いておる。その内容には迷いのない一心と定める信心決心がなされておる。そしてギリギリの所は、ね、いうならばままよという心で、ままよとは死んでもままよの事ぞと。というものが今日まで私ども夫婦の信心の内容として貫かれてきておる所に今日の合楽のごひれいがあるように思います。
どうぞ。